第24回「血も涙もある話」

血も涙もある話

 前回のコラムを書いたのち、無性に「トーマの心臓」が読みたくなって、おそらく20年ぶりぐらいに再読しました。いやあ、やはりいいですね。登場人物のわずかな心の揺らぎまでが絵に表現されているため、それぞれ大きく異なる個性を持っている登場人物の心情が読み手の心に響きます。一つ一つ謎が明らかとなっていく前半から、登場人物の心情が直接ぶつかり合う後半に入ると、涙なしには読めませんでした。

 昔から、物語には感情移入するたちでしたが、最近、さらに涙腺が緩んできたように思います。数年前にNHKで放送していた人形劇の「新・三銃士」を家族三人で見ていた時、元チーズ職人の反乱軍兵士ルミエールが息絶えるところで涙を流していたら、妻は「大の大人が人形劇を見て泣くとは・・」と少々あきれた様子でありました。息子は「少しウルッときた」と言っていましたが、妻ときたら涙の片鱗すら見えず、血も涙もないとしか言いようがありません。もっとも、家で泣いている分にはよいのですが、電車で本を読んでいる時に涙が出てきたりすると、さすがに困ります。トールキンの「指輪物語」はお気に入りで時々読み返すのですが、セオデン王の最後や、最終章の船出の時のシーンなどは、何度読んでも涙が出るので、電車の中では読まないようにしています。

 とは言え、このような感情移入は悪いことばかりではないように思います。実験をしていろいろなデータが集まった時、そのデータの流れに一種の感情移入をすると、自然とその前日譚としてイントロが頭に浮かんできます。あくまでよいデータが取れたときだけですが。データに齟齬があったりすると、へたな役者の芝居を見ているようで、そもそも感情移入ができません。そのような時は、いわば脚本家になったつもりで、つながりのないエピソードをつなぐ新たなエピソードを探すことになります。そして、そのエピソードを生み出す実験をすることになります。研究の論文であっても、僕にとっては感情移入のできる一種のストーリーなのです。

 最後に「トーマの心臓」を再読しての発見を一つ。シュロッターベッツの場所は、本では「下ればハイデルベルク、上ればカールスルーエ」と書かれています。前回のコラムで紹介したTさんの引用と違うので、いつもコピペレポートをチェックする要領でウェブを検索してみると、Tさんの表現に近い表現が見つかりました。ふーむ、Tさんの「文献」というのは二次文献だったのかな?

2013.09.24(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)
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