第33回「運動神経の有無」

運動神経の有無

 小学校の頃、全体としてさえない成績の足をさらに引っ張っていたのが体育と音楽でした。運動会の徒競争では常に熾烈なびり争いを繰り広げていたものです。多少なりともできたのは卓球ぐらいですが、当時は日中国交正常化の際のピンポン外交がもてはやされていた時で(年齢がわかりますね)、卓球クラブは人気が高く、5年生の時は入れずにソフトボール部に回されました。ソフトボールクラブでは「バットを振るのは届く範囲にボールが来たときの方がよいぞ」という至極まっとうなアドバイスをいつも受けていたものです。外野を守っていて、フライを見失い、目の前でバウンドした球を見つけてようやく捕ったときに、指導の先生から「頭を越されると大変だったが、よく前に落として捕った」と褒められ(?)たのが、先生という職業の大変さに触れた最初の経験かもしれません。

 その後、中・高もさして変わりません。今はどうなのかは知りませんが、僕が入った時の東大では、体育の授業の最初に体力測定があって、あまりにもひ弱だと、球技などのクラスには回してもらえずトレーニングというクラスに回されます。何をやるにしても、まずは体力を人並みにしてからにしようね、ということでしょう。当然のごとくそのトレーニングクラスに配属されたわけですが、単に運動しないからひ弱な場合は、運動をすればある程度体力がつく、ということがわかりました。おかげで、学部時代は、まあ「中の下」という程度になりました。その後、大学院に入ってから、テニス、ソフトボール、野球、バドミントン、バレーボール、サッカーなどを少しずつ覚えていって、たいていのことはこなせるようになりました。

 その過程で感じたのは、何ら練習もせずに最初からスポーツができるためには天性の運動神経が必要だけれども、練習して少しずつうまくなるのには運動神経は必要ではないということです。そもそも技術以前に、知識だけでうまくなることだっていくらでもあります。東大理学部にいたころ、動物・植物対抗サッカー試合のための練習で、味方に向かってボールを蹴ったら、サッカーの経験者から「味方に向かってパスを出すな」と注意されました。最初は冗談かと思ったのですが、サッカーでは、味方も敵もいないスペースにパスを出して、そこに味方が走りこむようにするのですね。目から鱗が落ちて、実際にやって見ると、試合がとたんにサッカーらしくなります。素人の場合、技術の向上よりは知識の向上の方が効果的という場合も珍しくありません。プロだと別なのでしょうけれども、運動神経ゼロと思われていた子供が、今はスポーツ万能中年になっているわけですから、大事なのは練習で、運動神経の有無はそれほど重要ではなさそうです。

 そんな話をテニス仲間にしたとき「園池さん、子供の時に運動をしていなかったからわからなかっただけで、実はもともと運動神経があったんじゃないの」を言われました。でも、これは簡単な実験で確かめることができます。そのテニス仲間はかなりの腕前の持ち主なのですが、「利き手でない左で打ってごらん」とやらせると、ラケットを振る以前に、ボールに対して適切な位置をとることができません。ラケットを持つ手が右から左に変わるだけで、走って動く動きは同じはずですから、運動神経でスポーツができるなら、左でもできそうなものです。結局、何度も練習をして、動作に慣れることが重要だということがわかります。しいて言えば、スポーツに必要なのは、うまくなって面白くなる前に投げ出さない能力でしょう。

 研究も同じです。「私は○○が苦手なので研究者に向きません」という学生がいますが、たいていは単なる言い訳ですね。実際は、「苦労して苦手を克服しようと思うほど研究をしたいとは思いません」ということなのでしょう。純粋にお金を稼ぐための手段として考えた場合、研究はそれほど良い仕事とは思えません。とすれば、研究も、素人のスポーツも、好きだからやるのでしょう。研究に必要なのも、スポーツ同様、うまくなって面白くなる前に投げ出さない能力なのかもしれません。

2013.11.25(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)
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