第40回「論理のない音楽」

論理のない音楽

 小学校の頃、体育と並んで苦手だったのが音楽でした。音楽を聴いて楽しむ分には楽しめますし(ただし現代音楽は除く)、歌を歌えば声は3オクターブ出ました。ところが、あの五線譜はだめですね。ふつう、五本の線が等間隔に並んでいたら、音の高さも等間隔と思いきや、一つ違いの位置にある音符でも、位置によって全音違う場合と半音違う場合があって、しかもこれにシャープやらフラットやらという余計な記号までつくのですから手に負えません。

 極め付きは、音程の数え方です。まず、全音でも半音でも1つに数えてしまいますから、同じ三度でもどれだけ音の高さが違うかが一定でありません。さらには、音符の位置が一つ違う時には、音の高さの差は二度になるのです。計算が合わないと思ったら、何と、同じ音の高さが一度だ、というではありませんか。インドでは7世紀ごろにはゼロの概念が確立していたというのに、音楽の世界ではいまだにゼロが発見されていないようなのです。

 そんな感じで小学生以後40年を過ごして来ましたが、実は数年前から楽譜がある程度読めるようになりました。時間がない時間がないと言いながらビオラを弾き続けている妻と、練習は常にいやいやながらなのに、幼稚園から続けているのをいまさらやめるのももったいないという消極的な理由でバイオリンを続けている息子に囲まれて、何か音楽をやってみたいという気は以前からしていました。ただ、弦楽器は音程を取るのが難しそうだし、と言っていたら、妻が中学高校の時に習っていたフルートとその教則本を取り出したのです。30年物の錆のついたフルートですが、五十の手習いの材料としてはぴったりだと思いますし、続くかどうかもわからない練習には安物で十分です。

 最初は、ろくに音が出ないところから始まりましたが、人間あきらめなければ何とかなるものです。続けていくと、そのうち音は出るようになります。読めなかった楽譜も、最初は1小節に1つの音符しかないところから少しずつ増えていくと、何とか楽譜に従って指を動かせるようになります。面白いのは、簡単な楽譜を見てフルートを吹けるようになっても、楽譜を見てメロディーを歌えたり、音楽が頭に思い浮かんだりすることはないことです。あくまでできるのはフルートを吹くことだけで、自分のフルートから出てくる音を聞いて初めて「ほう、こんな曲だったのか」と驚くのです。楽譜を読める、ということにもいろいろなレベルがあることがわかりました。

 もう一つわかったのは、音楽には「論理がない」というよりも「論理が必要ない」のだということです。いくら理屈をつけても、実際に演奏する時には考えている暇はありません。理屈ではなく、反射で楽譜と指を対応させる必要がありますから、一種のパターン認識です。とすれば、結局は楽譜が非論理的であっても、あるいは論理的であっても、パターンだけで判断する分には、結果はほとんど変わらないということでしょう。考えてみれば当然なのかもしれません。むしろ少し驚きだったのは、そのような、理屈の通らないパターン認識の世界に自分が入っていけたということです。40年たって、少し大人になったのかもしれません。

2014.1.20(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)
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