第42回「禅問答の科学」

たらい舟の謎

 我が家では、家族が皆、人の言うことを聞かずにしゃべる悪い癖があります。他人から見たらまるで禅問答でしょうね。ただ、この場合の禅問答は、落語の蒟蒻問答に出てくる禅問答です。蒟蒻問答では、問答に訪れた永平寺の僧を蒟蒻屋の主人が住職に化けて応対します。無言の行でゼスチャーによって問答すると、蒟蒻屋の主人は相手が蒟蒻を値切っていると思って応対しているのですが、永平寺の僧の方は、そこに深遠な意味を汲み取って這う這うの体で逃げ出してしまいます。相手の意図を理解せずに自分の言いたいことをしゃべるさまは、まさに我が家の会話を見る思いです。

 ところが、本当の禅問答を紹介した本などを読むと、実際の問答はなかなかシビアなようですね。禅問答では、提出された問題に対して解答を与えるプロセスが悟りのきっかけになることが求められているのであって、個々の問題や解答自体に意味を求めるのは誤りとされています。ある問題に対して、ある人がある答えをした瞬間に悟りを開いた、というようなエピソードがよく紹介されているのですが、それは、その時に、その人が答えたから大悟したのであって、別の人や別の時だったら悟りは開けないようです。自然科学が再現性を重視して、誰がやっても、いつやっても同じ結果が得られることを基盤にして構成されているのとは大違いです。禅問答では、同じ問いであっても、人によって「正解」が異なりますから、一人の人によって解答が与えられても、その問題は解決されたことにはならず、そのまま生き続けて別の人が別の解答を工夫するきっかけになります。一つの問題に答えを与えて解決し、その結果を基盤に次の問題に取り組むサイエンスとは考え方が根本的に違う、と思っていました。

 ところが、最近若い学生とディスカッションしていて、面白いことに気が付きました。あるテーマについて研究を始めて、設定された問題に対して、実験をすることにより解答が得られたところまで行くと、それで研究が終わりなのだと思う場合があるようなのです。実際には、解答が得られたとしても、それは最初のレベルでの解答に過ぎず、今度はその背景にある原理を探る必要が出て来て次の実験を行なう、ということを何度も繰り返していくことになるのが普通です。植物の葉がなぜ緑色なのかを明らかにしようとして、顕微鏡で観察をした結果、細胞の中に緑色の粒として葉緑体が存在していることを見つけたとします。葉は葉緑体があるから緑なのだ、というのが中学校のレベルの解答になりますが、実際にはなぜ葉緑体が緑色なのかがわからなければ物事の本質にはたどり着きません。葉緑体の中を電子顕微鏡で見るとチラコイド膜というクロロフィルを含む膜が存在して、それが実際には緑色の原因なのですが、それがわかったとしても、今度は、そのチラコイド膜が何をしているのかが不明のままではわかった気がしません。こうして、おそらくは終わりのない探究を続けて行くのが自然科学の研究なのですが、研究の経験が浅いと、入試問題のように正解を一つ与えればそれでおしまいだと思ってしまう場合があるようなのです。高校ぐらいまではそれでもまあよいのかもしれませんが、大学になったら、自然科学は入試問題よりはむしろ禅問答に近いのだと教えた方がよいかもしれませんね。自然科学の問題が、一人の人によって解答が与えられても、その問題は解決したことにはならず、そのまま生き続けて別の人が別の解答を工夫するきっかけになるのであれば、それはまさに禅問答と同じだと思います。

 とは言え、自然科学が我が家の禅問答とは異なることだけは確かでしょうけど。

2014.2.10(文:園池公毅/イラスト:立川有佳)
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