第1回「アーノン先生(1)」

 日原さんから昔話など書くように言われ、ハイと簡単に請け負ってしまった。普段、昔の仲間や同業の方たちとよく昔の話をすることがあり、結構盛り上がるので、そんなことを書けばいいかと気軽に引き受けてしまったのだが、いざとなると、そういう話は、実は他人の悪口が多くて、とても多くのみなさんの前では話すとまずいことも多々ありそうな気がしてきた。そうなると、どんどん気が重くなってきた。とにかくまずは書いてみて、それから、じっくり毒を抜き、できればいい味をつけてから、公開しようとして書き始めたら結構大変なことが分かってきた次第。昔話といっても50年近く前の主にアメリカの光合成研究者たちの話のそれも「個人の感想です」と註を付ける話ばかりであることを予めお断りさせて頂く。

 さて何から始めようかと考えた。

 私がPostdocとしてアメリカに渡ったのは1967年秋で、それから12年弱いくつかの研究室(Johnson Foundation, University of Pennsylvania, Philadelphia; Charles F. Kettering Research Laboratory, Yellow Springs, Ohio; Carnegie Institution, Stanford, California; Department of Cell Physiology, University of California, Berkeley)を渡り歩き、やっと埼玉大学理学部に迎えて戴いたのは1979年(昭和54年)。一番長く居たのはUC BerkeleyのArnon研究室で5年近くにもなった。そこで最後のアーノン先生についてのお話から始めたい。

 Daniel.I.Arnon(1910-1994)という人について今どれくらい若い人たちはご存じだろうか?光リン酸化(photophoshorylation)、フェレドキシンとNADPオキシドレダクターゼによるNADPH2 生成機構(NADP photoreduction)の確立、植物の光合成は葉緑体だけで完結(photosynthesis in chloroplast)などといった現在の光合成の常識はArnon研究室から出ていたことはご存じだろうか?まずはそういう偉大な人物だったということを念頭におかれて以下の拙文を読まれたい。彼の伝記は、いろいろ出ているが、長年の同僚B.B.Buchananが書いたmemoirが一番詳しい。以下のサイトで読める。(http://www.nasonline.org/publications/biographical-memoirs/memoir-pdfs/arnon-daniel-i.pdf)。この文を書くにあたってこれを読んだ。読んでみると、詳しくは知らなかったこととか、全く知らなかったこともあったが、かなりの部分は私が居た当時に既に聞いた話だった。反面、私が知っていてブキャナンが書いてないことも多々ある。それは多分(?)我々のような研究室の下っ端にだけに流布していた彼の知らない悪口などもあろう。アーノン氏は研究室内外に敵も多く、ブキャナンも多少は触れているが、多分意図的にあまり触れていない。そういうことも交えて私なりに思い出すまま書いてみる。

 私の彼との直接の出会いは、1972年ころだったと思う。当時私の居たCarnegie Institutionでは、所長だったC.S.Frenchが所員(常雇のスタッフとPostdoc全員)を引き連れて近隣の光合成関連の研究室を訪ねる行事が頻繁にあった。ほぼ必ずいつもお土産として誰かに講演(seminar)をさせる。そのときは研究所のあるStanfordからサンフランシスコを挟んで100マイルほど北のBerkeleyのアーノン研究室であった。最近でもかなり似た状況かも知れないが、当時は特に光合成の「学界」はこじんまりとしていたので、決して仲がいいとは限らないのだが、お互いにfirst nameでHi!と呼び合う仲である。東部ボストンの貴族(アメリカにも貴族みたいな階級がある)出身のフレンチ先生は紳士なので、決して人の悪口は言わなかったが、同じBerkeleyにいたMelvin Calvin(あのカルビンサイクルでノーベル化学賞受賞者)のことはかなり嫌っていたようで、悪口こそ言わないが、なぜか話題にしたくないような感じがした。この訪問のとき、アーノン研でセミナー(そのときの演者は私でP430の話をした)を終えて我々一行が同じキャンパスのカルビン研を訪ねたとき、先生は廊下の暗がりにいたカルビン氏にHi, Mel!とか挨拶しただけで通りすぎたのが非常に印象的だった。要するにカルビン研に行ったのにカルビンに会う予定は全くなかったのだ。話がどんどんそれてしまい恐縮だが、当時からカルビンは学界ではフレンチに限らず嫌いな人が多く、悪口は沢山聞いた。よく教科書にはCalvin-Benson-Bassham Cycleとあったのを覚えている。要するに、ノーベル賞をカルビン一人で貰ったのはけしからんという話である。この話は未だにネットにも出てくるし、面白いが今日の本題ではないのでいずれお話しするとして今回はここまで。ところで、わざわざ皆で訪問してセミナーをやるくらいだから、このフレンチプレスの発明者として名が残るフレンチ先生はアーノン先生とは決して仲が悪いことはなかったようだ。実は、カルビンとアーノンが犬猿の仲だったことは、光合成社会では有名だったらしい。実際に研究室に入ってから知ったが、当時の私は知らなかった。それはまた後でふれる。

 それはさておき、その翌年(1973)今度は彼の研究室ご一行が訪ねて来た。ご一行といっても当時彼の下で直接仕事をしていたB.D.MacSwainとH.Y.Tsujimotoの二人がついてきただけだったと記憶している。訪問の終わりころアーノン先生は私を物陰に呼び小さな声で自分の研究室に来ないかと言われた。即答はしないで考えてみるとだけ言ってその場はサヨナラした。私は帰宅するとすぐオハイオの三井旭さん(故人)に電話した。私が1971年まで居たC. F. Kettering研究所に居た最後のころ三井さん(A San PietroのところでPostdocだった)がKetteringに移って来られ親しくお付き合いさせて頂くなかで、アーノン氏に三井さんがずいぶんいじめられた話とさんざん聞かされたからだ。三井さんは何と1960年代初めにアーノン研に居たのだ。NADP photoreductionの研究がたけなわだった時代である。ほぼ毎夕仕事が終わってから彼の借りていた一軒家の庭に椅子を置いて二人でそこに植えてあった野菜など引き抜いて肴にしてビールを飲んでいた1971年の夏が懐かしい。三井さんは私の光合成の恩師西村光雄先生(現九大名誉教授)の大学時代の同級生でもあった。悪口をさんざん聞かされていた私はアーノンの所に行くなどほとんどあり得ないと思ってはいたのだが、ともかく三井さんの意見をぜひ聞きたかったのである。結果は、「いや、あの人物は偉大だ。勉強になるから行ったほうが良い」と実に意外なご意見を承り、バークレイという土地にも魅力があって、つい行きますと言ってしまい、遂に日本に戻るまで5年もいることになってしまった。当時私はカーネギー研究所にもう3年近く居てフレンチは私をスタッフにしたいと思っていて所長を定年退職するとき次の所長に言ってくれたが光合成屋ではない次の人はNoといったらしく、私は次の行き場を探しているところだったこともある。フレンチ先生は快く私をアーノンの所に出してくれたのは仲も悪くなかったからだろう。

 三井さんにオハイオ時代にサンピエトロとアーノンとの大変な不和の話も聞いたエピソードのひとつを紹介しよう。1960年代初めのある学会でアーノンが発表する番がきたとき、それまでいた会場の半分以上の人たちが一斉に立ち上がり退場してしまったのだそうだ。サンピエトロは当時まだJohns Hopkins大学のBiochemistryの教授で有名なPPNRの精製の論文(JBC 231:211(1957))で一躍光合成学界で有名になった。PPNRとは何ぞや?から始まる次のストーリーは、これ以上遅れないようとりあえず次回にする。(つづく)

2013.08.04
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