第4回「アーノン先生(4)」

 まず、またお詫びである。前回フェレドキシンを発見したDuPontグループはDEAEセルロースクロマトグラフィーを使っていたと書いたが、よく読むとクロマトというより吸着脱着だけのバッチ法であった。だから丁寧にクロマトをやったTagawa/Arnonのように結晶化まではいかなかったのだろう。それにひきかえ、1958年のKornberg論文(DNA polymeraseの発見)ではステップ方式ながら既に立派にクロマトをやっていて、さすがにノーベル賞になったpaperだけのことはある。

 サンピエトロ研では1960年になって出したpaper(PPNRをさらに精製してTranshydrogenaseを得た:JBC 235:2989-2996)でもDEAEを使っていない。トランスヒドロゲナーゼとはNADH2 + NADP = NAD + NADPH2という可逆反応を触媒する、要するにNADとNADPの間でHの交換をする酵素である。後で三井旭さんのボスになるKeisterと、当時NAD関係の酵素の研究で有名だったKaplan(1917-1986)の研究室から来たStolzenbachという人も共著者である。サンピエトロ自身もKaplanと共著が2編もある。なぜカプランが大事かというと、Kaplan研では既にDEAEが使われていたはずだからだ。というのは、光合成とは関係ない仕事だが、乳酸菌の乳酸脱水素酵素(LDH)に関するDennis/Kaplanの論文(JBC 235(1960)810-818)がある。ここではD-LDHとL-LDHを分けるのに、NaClグラジエントで溶出するDEAEセルロースクロマトグラフィーが使われている。なぜこんなことを知っているかというと、また私事になって恐縮だが、このpaperの「乳酸のラセミ化反応はD-LDHとL-LDHの共同作業である」という結論は私の修士論文(第1回で紹介したJ.Gen.Appl.Microbiol.11(1965) 51-60)と同じなのだ。私が修士課程に進学して3か月くらいでこの結論に達したとき(1962年夏)、初めて指導教官の水島昭二さんがこのDennis/Kaplan論文を教えてくれた。「やっぱりそうか」と水島さんがつぶやいたのを覚えている。2年遅れで追試したことになる。後で知ったが、指導教授の北原覚雄先生が戦前の1930年代に京大でラセミアーゼ(現在はLactate racemase)という酵素を発見し、戦後の1950年代に東大応微研の教授になられて、一緒に京大から来られた助教授の福井作蔵先生と助手の大林晃さん(後タカラ研究所長)とともに1953年にLactobacillus plantarum 11からCell-free標品の調製に成功、1960年には日本学士院賞を受賞されていた。ところがDennis/Kaplan論文は「乳酸のラセミ化反応は、ラセミアーゼという独立の酵素の作業ではなく、D-LDHとL-LDHの共同作業である」と結論してしまった。北原先生は、これを知ったとき、「彼らの使った菌株(Lactobacillus plantarum ATCC8041)はうちのと違う。うちの株には本物のラセミアーゼがあるはず」と言われたようだ。そのころ農芸化学の坂口謹一郎研究室から移ってきて、乳酸菌Lactobacillus plantarum 11の乳酸発酵(解糖系)の酵素を片っ端から精製していた新進気鋭の水島さんに「今度来る馬力だけはありそうなあの学生に我々のCell-free標品から硫安分画とDEAEセルロースを使ってラセミアーゼを精製させてみなさい」といったらしい。この辺で私事の話はやめよう。何でこんな話をしたかというと、前に、なぜアーノン研ではDEAEセルロースを上手に使ってフェレドキシンを結晶化まで持って行けたかという話を書いたとき、これには日本特に阪大奥貫研の生化学実験技術の高さがあったろうと書いた。それは正しいが、当時阪大に限らず、日本でもアメリカでも盛んに酵素やタンパク質精製技術が競われていた。細菌のOxygenaseを次々に精製していた京大の早石修さんもKornberg研に行って居られた。

 といって田川さんの業績がすばらしいことに全く変わりがない。私がいた1970年代のアーノン研ではこんな「悪口」を聞いたことがある。聞いた場所は、当時、毎朝9時ころだったと思うが、仕事に取り掛かる前、若手が7,8人Berkeleyキャンパスの裏門のすぐ前にあった珈琲屋に繰り出しアーノン先生の悪口やらなにやら語り合う集まりがあった。そこで聞いた話である。「ある晩、Kunio Tagawaはアーノン先生から電話を受けた。「すばらしいSchemeを思いついた!ぜひ聞いてくれ」という前置きで延々と語った内容はKunioがそれまで何週間もしつこく先生に説いていたけど納得してくれなかった説だったという話。これを聞いて、皆、さもありなんという顔でうなずいていた。私も毎朝同じことを先生と繰り返しディスカッションさせられ、英語の勉強にはなったが、ウンザリもしていたから納得してしまった。これを語ったのは田川さんの終わり頃に来たテクニシアンの1人ディック・チェイン(DC)氏である。私がこの逸話を聞いたのは1970年代半ばだから、既に10年以上前の話ということになる。

 さて、これは何の話なんだろう。前述のTagawa/Arnon論文(Nature 195(1962)537)の直前にアーノン研から出たpaperがある(Nature 190(1961)606)。これは前回出したZ-schemeの図の真ん中の図の原典である。前回も述べたが、この論文では、PPNR(但し省略形ではないが)も引用していて酵素だと信じ切っていた。だからPPNRは電子伝達体という概念はアーノン先生にも全くなくて、そこにFNR+ferredoxinという全く新しい考え方をフェレドキシンのことを聞きつけた田川さんが説いていたというのが私の推測である。

 10年前の話が残って伝説になっていると言えば、アーノン研ではShinという言葉が私の居る頃にまだ日常的に使われていた。ShinとはFNR(ferredoxin NADP oxidoreductase:当時はferredoxin TPN reductase)のことで新 正光さんがやった仕事(Biochem .Z.338(1963)84)だからということである。これを聞いた頃、まだ私は新さんにお会いしたことがなかった。1979年の日本に帰ってきて初めて出た学会で、埼玉大学の同僚となっていた金井龍二さんに紹介されて新さんに初めてお会いしたとき、思わず「あの有名な新さんですね」と言ってしまったのを覚えている。テクニシアンのDC氏は私が居た当時1970年代にも新さんに教わった方法を忠実に守りフェレドキシンとFNRを大量生産してくれていた。

 ここでFNRの話に移ろう。先述のトランスヒドロゲナーゼは後にアーノン研で結晶化したFNRと同じものである。というのは、Shin/Tagawa/Arnonのこの論文(Biochem. Z, 338 (1963), 84)はサンピエトロのPPNRを出発材料としていて、Keister/SanPietro/Stolzenbachの上記論文と同じ。そしてトランスデヒドロゲナーゼ活性もちゃんと測っている。違いは、しつこいが、DEAEと、そしてなによりもフェレドキシンに気がつかなかったことである。

 新さんの面白いのは1968年にComplex formation of ferredoxin-NADP reductase with ferredoxin and with NADP (BBRC 33(1968) 38)というpaperを何とサンピエトロ先生と共著で出していることである。サンピエトロは1962年にBaltimoreのJohns Hopkins大学からOhioのC. F. Kettering研究所に移っていた。新さんはArnon研を出てすぐSan Pietro研に移ったのではないと思うが(いわゆるExchange Visaの場合、2年間は米国を離れないと再渡米できないので)、それにしても、よりによって敵対関係にある研究室に移ったのは面白い。私はBritton Chanceの研究所にいるとき(1967-1969)このpaperをリアルタイムで読んでいて西村先生とChanceと共著で書いたPlant Physiology誌のpaperに引用したのを覚えている。

 第1回で書いた三井旭さんはアーノン研を離れて帰国して横浜市立大助教授になられたが、数年して再度渡米、今度は、サンピエトロの研究室(1968年にIndiana Universityに移った)にPostdocで行かれた。私がKetteringに行ったのは1969年の秋、サンピエトロ氏が既に居なかった。三井さんにお会いしたのは1971年の夏前で、その秋には私はCarnegie に移ってしまった。Indianaでは2年居られて契約が終わり、サンピエトロの弟子Don Keister(この人は先述のトランスヒドロゲナーゼpaperのfirst authorで、1962年に一緒にBaltimoreからKetteringに移り、1968年からはKetteringの旧サンピエトロ研を継いだ人)の研究室に来た。

 ここまで書いたところで、ある文献をネットで見つけた。サンピエトロ氏が2008年に書いた自伝である。出たのは4月(受理は1月)、その年の9月に86歳で亡くなるわずか数か月前に書かれた15ページにもわたるautobiographyである。Govindjee氏がeditしたと書いているが、scientificな部分などとても86歳とは思えないしっかりした文章である。イタリアから移民してきた祖父のことから始まってニューヨークでの苦学、戦時中の軍隊での生活等々面白くて読んでいるうち、またまた遅くなってしまった。自伝には、多分新さんがサンピエトロを連れて東大の高宮研究室を訪れたとき撮影された1969年の写真がある。三井旭さんと森田茂広助教授の間に新さん、高宮篤教授と若い(まだ30代半ば)加藤栄さんの間にサンピエトロ先生が写っている。実は新さんだけでなく高宮先生も加藤さんもKetteringで一緒に仕事をされていたのだ。このときは、既にIndianaに移っていて、この後三井さんがそこに行ったことになる。あとは次回にお話ししよう。

2014.11.11
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