Marcusが1956年の論文で定式化した,電子移動に関する理論.主に次の仮定からつくられる. (1)溶媒などの環境は分極場をもっていて,反応体からの電場と相互作用する.(2)分極場は電場に対して線形に応答する. (3)分極場の応答は局所的である(連続体近似).(4)反応が進んでも反応体のまわりの環境は常に平衡分布を保つ(遷移状態理論).この理論から電子移動速度の具体的な式が導ける.それによると,速度に対する反応前後の自由エネルギー差の依存性(エネルギーギャップ則)は,釣鐘状(ベル型)になる.このベル型のエネルギーギャップ則は,その後の多くの実験によって確かめられた.
上の4つの仮定をさらに詳しく説明すると, (1)タンパク質や極性溶媒などの環境を分極場で表す.分極場は空間的な位置に依存する.双極子を越える多重極は考慮しない.また電子分極は瞬間的に応答し,電子移動速度に寄与しない.(2)分極場は電場に比例する.この仮定は,マーカスの理論の最大の特徴で,これからベル型のエネルギーギャップ則が得られる.(3)分極場は同じ位置の電場にだけ応答する.この仮定は,環境をつくる双極子どうしの相関を無視していることになる. (4)環境の緩和が電子移動速度に比べ十分速ければ,分布は常に平衡になる.粘性の高い溶媒では成り立たない場合もある.これらに加え,次の仮定がされる. (5)電子トンネリングを摂動的に扱う.電子が移動する位置は十分離れていて,その相互作用は小さい. (6)環境を構成する核は古典力学に従う.つまり,核のトンネル効果は無視する. (7)2つの分子の間で電子が移動する場合,分子の距離が一定のところで反応する.反応が起こる距離は分布しない.
マーカス理論では,電子移動速度kは次の簡単な式で表せる.
ここでvは衝突頻度,kBはボルツマン定数,Tは絶対温度,ΔG≠は活性化自由エネルギーである.環境からの寄与を考慮してΔG≠は次の式で書ける.
ここで,ΔGは,自由エネルギー差で, ΔG=GF-GIで定義される.GFとGIは,それぞれ終状態と始状態の自由エネルギーを表す.また,λは,再配向エネルギーと呼ばれている量で,2つの分子の間の電子移動の場合,
と書ける.ここで, Δe は移動する電荷の量, εopとεは光学応答の誘電率と静的な誘電率,ra,rdは電子をやり取りする2つの分子の半径,Rはそれらの間の距離を表す.
マーカス理論の最も大きな特徴は,エネルギーギャップ則にある.活性化自由エネルギーが環境だけの寄与で決まるとき,電子移動速度は,式(1)で与えられる.したがって,式(1)から移動速度は,自由エネルギー差(ΔG)に対して,ガウス関数で表せる.つまり,横軸にΔGをとり,縦軸に電子移動速度をとると,ベル型のグラフが書ける.このベル型のエネルギーギャップ則は(2)の仮定が重要で,(3)は特に必要ない.また,マーカス理論のエネルギーギャップ則は直感に反する領域がある.直感的には,始状態の自由エネルギーに比べ,終状態の自由エネルギーが低ければ低いほど,電子移動速度は上がる.ところが,ベル型ではその差がある程度開くと移動速度が下がる(逆転領域).式(1)で説明すると, -ΔG>λで逆転領域を示す.逆転領域はその後の多くの実験により確かめられた.これからマーカス理論の正しさが証明され, Marcusは1992年にノーベル化学賞を受賞した.